みなさんは開業してわずか6年で経営破綻をした鉄道会社があるのをご存知でしょうか。地方にあるわけではなく、政令指定都市にある路線です。
その路線は「千葉急行電鉄」として開業しました。現在の京成千原線です。

写真は千葉寺駅。反対側のホームは全く使われていません。開業から一度も。
線路も敷かれていません。なぜこのようなことになったのでしょうか?
千葉急行が開業したのは千葉市が政令指定都市になったまさにその日、1992年4月1日です。
このブログ、初めての投稿は、開業まで37年かかったのに、開業したら6年で経営破綻してしまった、千葉急行のあゆみを見ながら、その原因を探ります。
小湊鉄道の千葉乗り入れ計画
そもそも、千葉急行線(京成千原線)は小湊鐵道が千葉に乗り入れるために計画された路線が始まりです。
1955年1月13日 小湊鉄道が国鉄房総東線(外房線)本千葉駅ー小湊鉄道海士有木間の免許申請をします。
路線は本千葉駅から小湊鉄道の海士有木駅までの17.9kmで予算4億円。途中駅は本千葉(0.6km)県庁前(1.0km)千葉一校前(0.5km)球場前(1.8km)蘇我住宅(1.2km)大巌寺(1.3km)生浜(1.7km)古市場(4.3km)市原(4.5km)海士有木と進んでいきます。
千葉市内は駅間距離がかなり短い感じです。今の千原線より全然短いですね。
本千葉駅とはどこか?
こちらは京成千葉線・千原線の千葉中央駅です。後ろに外房線が走っています。この千葉中央駅が房総東線の本千葉駅があった場所です。

千葉市では、戦災復興都市計画の区画整理のため、国鉄、京成、共に千葉市内で駅を移転します。その結果、京成千葉駅。現在の千葉中央駅は、国鉄房総東線・本千葉駅の跡に移転します。それがこの写真の位置です。
そして、小湊鐵道が免許申請をした3年後の1958年2月10日 京成の駅が現在地(旧房総東線本千葉駅)に移転します。
よく、京成は千葉市内の良い位置から裏側に転居させられた。的な書かれ方をしますが、小湊鉄道との連絡のためには、移転は必須だったような気がします。
広がる計画
1957年12月27日 小湊鉄道は本千葉~海士有木間の免許取得します。内容は、軌間(レールの幅)が1067mm。動力は蒸気またはディーゼルということで、SLが走ることも想定していました。建設の目的は、目的は一般旅客及び貨物。
ちなみにこの路線、計画線は千葉中央から千葉寺までは現在線と同じですが、そこからは現在と違って、内房線と並行して走る予定でした。
1964年8月 京成が東陽町ー千葉寺間新線の免許申請(東陽町-砂町-オリエンタルランド-船橋港-谷津-稲毛海岸-千葉港-千葉寺)をします。オリエンタルランドは今のディズニーリゾートです。
この京成の新線は、小湊鉄道線新線との直通運転を目指しました。この話しはそれはそれで面白いのですが、また別の機会にお話ししたいと思います。結果だけ言うと、京成は結局免許は取得できませんでした。
小湊鉄道は、1969年12月、地方鉄道起業目論見書記載事項変更認可申請を行い内陸沿いの路線に変更して、市原市辰巳台に経由することにしました。
駅は京成千葉(今の千葉中央駅)を出ると、千葉寺-大森-赤井-(外房線を越える)-生実-草刈-辰巳団地-山田橋-海士有木です。
同時に、目的を旅客だけに、軌間を1435mm、動力を電気(直流1500V)にして、京成と直通できるようにしました。
この時点で千葉中央・辰巳団地間の用地の70%が買収終了していたようです。(小湊鉄道と京成電鉄が用地買収を実施)
苦難の歴史
この、辰巳台への路線変更を行なった1969年、この年から京成の苦難の歴史が始まります。まず、1969年に東西線が西船橋に延伸して船橋で国鉄に乗り換える客が増加。同じく1969年には千代田線が北千住まで開業して、町屋駅周辺の旅客が地下鉄に移転します。そして1972年総武快速東京-津田沼間が開業。
これら競合路線開業によって、京成の乗客は、船橋より西の区間で二割ほど減少します。
さらに追い討ちをかけるように、1972年に京成成田-成田空港(現・東成田)まで完成するものの、成田空港闘争の影響で、新線は1978年まで開業できない事態に陥ります。
このような中で、1973年2月21日 千葉急行電鉄が発足します。千葉急行が設立された理由は、京成としては、独力で建設するのはリスクが高いので別会社を設立したとの見解でした。同じように、前年の1972年には北総開発鉄道が発足しています。小湊鉄道が免許申請をしてから18年。親会社の京成電鉄の乗客が減少する中、この路線はなかなか着工できませんでした。
1973年7月23日 小湊鉄道から千葉急行に免許譲渡譲受認可申請を行い、事業主体が小湊鉄道から千葉急行に移ります。
そして、1973年11月 オイルショック発生。いよいよ京成の経営が傾き始めます。
1973年に申請した免許譲渡は、1975年12月20日に認められて、小湊鉄道から千葉急行に免許譲渡譲受認可申請が認可されます。
さらに、1976年 12月 再度地方鉄道起業目論見書記載事項変更認可申請を行い、現在の路線に申請し直します。
事態が動く1977年
1977年5月11日 日本住宅公団(現在のUR)のおゆみ野・ちはら台区画整理事業が認可されます。これは計画人口12万6000人の「千葉・市原ニュータウン」の建設です。1976年のルート変更は、千葉・市原ニュータウンの足として、この新線を活用するために行われたものです。
1977年5月31日千葉中央ーちはら台間の工事施工認可を得て、現路線に変更されます。さらに、1977年8月 日本鉄道建設公団の民鉄線工事(P線工事)になり、建設費用の25年間元利均等払。5%以上の借入金利を国・地方自治体が補助というスキームが作られます。。
そしてついに、1977年8月31日。工事が着工されます。小湊鉄道が免許申請をしてから、22年経っていました。
1977年には、資本面でも動きがあります。千葉急行に対して千葉県、千葉市、市原市が出資。更に、1978年に宅地開発公団(現UR)が出資。千葉急行電鉄は、第3セクター鉄道になります。
苦難の建設史
千葉急行線の建設は着工されたものの、肝心の沿線におけるニュータウン開発は遅れます。ニュータウン着工後、ニュータウンの排水路となる河川改修に手間どって造成が大幅に遅れ、更におゆみの駅周辺では文化財発掘調査が始まります。
ニュータウン建設が始まった12年後の1989年時点で、千葉・市原ニュータウンは計画人口12.6万人に対して,現住人口8.100人に止まっていました。
千葉県は,京成電鉄に対して千葉急行電鉄の早期開業を要請しました。一方の京成電鉄は、ニュータウンが熟成していない段階での開業に不安を持っていました。さらに,ニュータウンの造成主体である日本住宅公団と宅地開発公団が統合してできた住宅・都市整備公団も,JR外房線で十分対応できると考えていました。
確かに、おゆみ野駅と学園前駅は外房線の鎌取駅から近い位置にあります。駅設置の看板を見てもわかると思います。

いよいよ開業!
そしてついに、1992年4月1日千葉中央ー大森台(4.2Km)間が開業します。小湊鉄道が免許申請をしてから37年経っての開業でした。本来であれば複線で開業すべきところ、単線で開業しました。
開業時に用意された車両は、京成がリースをしていた、元京浜急行1029ー1032。赤い京急電車を真っ青に塗り直した上で投入しました。この辺り、できるだけコストを圧縮しようとしたことがよくわかります。
こちらは、大森台まで開業した際に唯一設置された中間駅の千葉寺駅です。複線で土木工事はなされていますが、片方の線路は使われていません。開業以来、一度も線路が敷かれたことはありません。

千葉寺駅に開業当初からある案内装置。本来の下り線のホームしか使っていないため、次の電車が千葉中央方面行きなのか、当時の終点の大森台方面行きなのか、光るようになっています。

開業はしたものの、開業後半年での利用人員数は、目標の1/6程度の1日あたり3000人弱。国鉄の廃止基準に抵触するくらい少ない人員数でした。
当時、千葉急行電鉄の経営企画課長が新聞社の取材に対して、「昼間はタクシー1台で運べるくらいの乗客しか乗っていないことがある」と話していました。
ちはら台までの延長!しかし経営破綻へ
1995年4月1日、大森台ーちはら台間6.7Kmが開業します。開業に伴って、京成の赤電3050形(3067-3070)が投入されます。また同時に運賃が値上げされます。
計画では、2000年3月31日までに千葉中央からちはら台まで複線開業をする予定でした。
しかし、ちはら台まで開業したものの、千葉急行電鉄の経営は悪化の一途をたどります。
そして1998年10月1日、千葉急行電鉄は自主廃業して、千葉急行線は京成千原線として再出発します。といっても、ダイヤが変わるわけでもなく、車両が変わるわけでもなく、乗客にはあまり変化は感じさせなかったですが。
ちはら台まで開業してからわずか3年。なぜ千葉急行電鉄は廃業に追い込まれたのでしょうか。

千葉急行は黒字だった!?
こちらが、千葉急行電鉄の売り上げと費用を示したものです。鉄道事業は(かなりの)赤字。一方で不動産事業は黒字です。不動産事業の方が丸が一つ大きい規模でしたので、会社全体では営業利益を計上(つまりは黒字)していました。

ちなみに、1992年度に鉄道事業は10.5億円の営業費用を計上していますが、このうちの4.5億円は減価償却費用、つまり、建設費用を分割して計上したものです。残りの6億円が社員の人件費、電気代などの経費です。
ということで、1.6億円の運賃収入を得るのに、電気代とか人件費が6億円かかっていた。ということになります。
1995年にちはら台まで開業して、鉄道事業の収入は倍増します。しかし、費用も倍近くになっているので、鉄道事業の赤字はますます大きくなります。
一方の不動産事業は、1995年は景気後退の影響で一旦落ち込んで、会社全体が営業赤字になりますが、翌年度は復活しています。
では、なぜ1997年に千葉急行は自主廃業することになるのでしょうか?
重い金利負担
こちらは、営業外収益と費用を表したものです。

営業外収益は補助金とか。営業外費用は主に借入金利です。見てお分かりの通り、金利負担が非常に重いです。開業した1992年度は、鉄道事業の収入が1.6億円なのに、借入金利で18.6億円払っています。なんと金利が運賃収入の10倍・・・。
なんでこのようなことになっているかというと、千葉急行線の建設は日本鉄道建設公団が行なって、その後金利5%をつけて返済することになっていました。
物価が上昇していれば、収入も増えるので金利を付けて返済ができますが、当時はバブル崩壊の真っ只中。乗客は増えない、収入は増えない、という中で、金利負担だけが重くのしかかります。
結局会社全体では、不動産事業が黒字でも、鉄道事業が赤字。更に金利負担が重く、トータルでは大赤字。ということになります。
しかも、会計制度上、赤字は翌期に持ち越されて、1994年度には会社の負債総額が資本金を上回る「債務超過」の状況に陥ります。
開業後2年にして債務超過に転落というのはなかなかないと思います。。。
焦る運輸省
1997年になって、この事態を重く見た当時の運輸省が、関係者を集めて「緊急対策会議」を開催します。
参加者は千葉急行に出資している、京成電鉄、千葉県、千葉市、市原市。出資者でかつニュータウンを開発している住宅都市整備公団。そして、建設を請け負った日本鉄道建設公団です。
ここで「運輸省案」を出して、合意に持ち込みます。運輸省案はこの図のとおりです。

まず左上。
千葉急行電鉄は千葉中央からちはら台までの鉄道施設、318億円分を持っていました。加えて左下。鉄道建設公団が320億円持っていました。これは、千葉急行は単線で開業したので、使っていないもう一方の単線分を保有していたものです。
千葉急行は鉄道建設公団に対して建設費用を金利を付けて返済をしていましたが、これが無理ということになり「代物返済」をします。代物弁済とは、読んで字の如く、物をもって返済する。つまりお金が返せないので物(318億円分の鉄道施設)を返します。ということになりました。
鉄道建設公団は、自分の持っている320億円分と、千葉急行から代物返済された318億円分を合わせてあらためて資産の評価をしなおします。
そして、新たな千葉急行線の鉄道施設の評価額が500億円。差分の147億円を特別損失として処理します。
この500億円分のうち、京成千原線として運行する部分の鉄道資産、450億円分を京成グループが(京成電鉄本体が300億円。それ以外をグループ各社が)、残りの50億円を千葉県、千葉市、市原市の地元自治体が負担します。50億円分の鉄道資産は、千原線の複線化部分の鉄道施設で、千原線が複線化する際に、京成が取得する予定になりました。
これ以外に、千葉急行電鉄に「出資」した資本金、計34億円は全て紙切れとなりました。
夢の国の魔法を手にする京成電鉄
京成電鉄は鉄道建設公団から鉄道施設を手に入れて、かつ出資した株式は紙切れになるのですが、これ以外にも出費を迫られます。

千葉急行に貸し付けていた120億円。千葉急行が銀行などから借りていた借金を保証していた分の7億円弱。こうした費用を処理するために、京成は1999年3月期決算で、117億2400万円の特別損失を計上します。
かなり膨大な金額ですが、京成電鉄は、関連会社のオリエンタルランド(東京ディズニーリゾートの運営会社)の株式を200万株売却して、90億円の特別利益を手に入れます。
ということで、千葉急行の破綻処理には、ディズニーランドが役に立つという図式になりました。
1998年10月1日。千葉急行線は京成千原線として再出発します。そこから四半世紀が経過しましたが、今後どうなっていくのでしょうか?
次回はおまけとして、千原線延伸について、補足をしていきます。
【出典】
京成電鉄50年史
鉄道ジャーナル1992年8月
毎日新聞、千葉日報縮刷版