東急田園都市線はなぜ地下を走るのか?その複雑で長い歴史を振り返りに、田園都市線に乗りに行く

関東私鉄

田園都市線は渋谷から二子玉川の手前まで、地下を走ります。高度成長期までは国道246号線などの上を走る路面電車の玉川線でした。当然、目黒区や世田谷区の人口密集地帯を走るので、路面電車では立ち行かなくなりました。

当時の車両は、田園都市線宮崎平駅の脇にある、東急電車とバスの博物館の中に展示されています。

東急田園都市線に乗り、電車とバスの博物館を訪ねながら、なぜこの区間は地下を走るのか、歴史をたどります。

田園都市線の渋谷駅。半蔵門線と乗り入れをしている。

道路の上を走っていた玉川線

田園都市線と名乗る前、地下区間の開通当初、渋谷から二子玉川まで新玉川線という名前でした。そしてさらにその昔、「新」のつかない玉川線がありました。

これは、田園都市線宮崎台駅近くの電車とバスの博物館に保存されている車両。このデハ200。愛称ぺこちゃん。この車両がその昔、渋谷から二子玉川まで地上の道路の上を走っていました。その当時は「玉川線」と呼ばれていました。

電車とバスの博物館に設置されている、玉川線のペコちゃん。この愛らしい車両が国道246号線の上を走っていた。

玉川線は、1896年(明治29年)玉川砂利電気鉄道が玉川ー三宅坂間における電気鉄道敷設免許を申請することから始まります。玉川は今の二子玉川付近。三宅坂は半蔵門線の永田町駅の東の先です。

名前に砂利が入っていることから分かるように、日清戦争講和後の好景気の中、東京市内の建設、土木需要のため、多摩川の砂利や砂を東京市内に運ぶために計画されました。
結局、特許が得られたのは渋谷ー玉川間だけでした

1907年(明治40年)3月にに道玄坂上ー三軒茶屋間が開通、翌月の4月に三軒茶屋ー玉川間が開通します。当初は複線の予定でしたが、道路上、大山街道今の国道246号線の上に建設されたため、幅が取れず、単線でかつレールの幅は1067mmでした。
そしてこの年の8月、渋谷ー道玄坂上間が開業して、渋谷から玉川間が全通します。
この時、一部に専用軌道があったものの、多くの部分は大山街道の上を走る路面電車でした。

大正時代に専用軌道化?

その後、玉川電鉄の経営は順調に進み、大正時代になると、複線化と共に全線の専用軌道化が計画されます。しかし、専用軌道化は地元の反対によって断念します。そして、複線化と共に、東京市電(今の都電)と同じレール幅の1372mmに改軌します。この時、専用軌道化をされていたら、現在の田園都市線はかなり変わった形になっていたと思います。専用軌道になっていたら、それを高架化した方が安上がりですので、今みたいに地下を走ることはなかったのではないかと思います。

渋谷から玉川まで開業したあと、玉川から砧(1924年開業)。今の世田谷線である三軒茶屋から下高井戸(1925年開業)。玉川ー溝の口(1927年開業)と次々に路線を伸ばしていきます。これらの路線は多くが専用軌道でした。また、都心に近いエリアであってのちに都電になる、渋谷から天現寺と中目黒までの間を開通させています。

電車とバスの博物館で撮影
電車とバスの博物館で撮影

これ以外にも玉川電気鉄道は、以下の路線の新設を申請します。

・渋谷ー千駄ヶ谷
・渋谷ー北品川
・世田谷ー登戸
・渋谷ー新宿追分
・大坂上ー大森
・上馬引沢ー目黒
・戸越ー五反田

しかし、いずれも却下されてしまいます。

玉川線は東急に

1939年(昭和14年)、玉川電鉄は東京横浜電鉄、今の東急に合併されます。
東急ができていく過程で行った数々の企業買収は、それはそれとして色々なドラマがあるのですが、それはまた別の機会に・・・。

戦争中、高津や溝の口に工場が立ち並び、通勤客が激増します。大井町線からの乗り換え客で、二子玉川で玉川線の溝の口行きの電車に乗り切れない事態が多発します。

輸送力増強のため、二子玉川ー溝の口間は線路幅を1372mmから1067mmに改軌して、1943年(昭和18年)、大井町から溝の口まで、大井町線が乗り入れることになりました。玉川線は路面電車ですが大井町線は大型の鉄道車両だったので、大井町線の電車を乗り入れさせることによって輸送力を増やそうとしたのです。

そして、1945年8月15日、戦争が終わるまさにその日、 砧線及び旧溝ノ口線区間の二子玉川ー溝の口間を、軌道法による軌道から地方鉄道法による地方鉄道に変更します。この区間はほとんど専用軌道だったので、実態に合わせたのでしょう。

そして、戦後を迎えます。

高架線?東横線乗り入れ?

戦後すぐ、玉川線の専用軌道化が計画されます。
東急は、1946年(昭和21年)5月、渋谷ー三軒茶屋間を新設軌道に移す計画を申請します。この計画は、大山街道(国道246号線)から50m離れたところに高架線を作るというものです。
4年後の1950年(昭和25年)に三軒茶屋ー二子玉川についても申請しますが、審議未了で保留されたままになります。

この当時、まだ都市化がそれほど進んでおらず、大山街道から50メートル話せば、用地確保は容易だったようです。

次の案は大井町線九品仏から東横線都立大学まで短絡線を作って、大井町線を東横線に乗り入れる案。自由が丘駅を改良して乗り入れる案が作られます。
しかし、いずれも実現することはありませんでした。

この時代、まだ溝の口から先の「多摩田園都市」計画は存在していませんでした。

多摩田園都市計画の始動

1953年(昭和28年)、今の田園都市線溝の口から中央林間までの間で多摩田園都市を建設するために「城西南地区開発趣意書」が東急から出されます。

この地域の交通網を整備するために、東急は1956年(昭和31年)に3つの計画を立てます。

①営団地下鉄銀座線との直通を基本とする新玉川線建設
②溝の口から長津田までの大井町線延長線
③渋谷から江ノ島までの有料道路・東急ターンパイクの建設計画

ちなみに、この有料道路計画は、東名高速道路と競合することになり、許可されることはありませんでした。

そして東急は、1956年(昭和31年)に新たな計画を立てます。

東京メトロ・銀座線浅草駅

銀座線は長津田へ!

1956年(昭和31年)に出された計画は現路線の南側を走る路線です。

渋谷駅は高架駅から出発して、すぐに地下に潜り、山手通りとの交差点で地上に出てから高架線になり桜新町付近までは現在の田園都市線の南300mから1000mほど南を走り、桜新町から二子玉川までは盛土高架線を走る予定でした

駅は、渋谷、大橋、三宿、三軒茶屋、上馬、駒沢グランド前、桜新町、用賀、瀬田、二子玉川園の10ヶ所。今よりも3ヶ所多くなっています。

渋谷において銀座線と乗り入れるため、軌間は1435mm、集電方式も架線を張らない第三軌条方式とされました。

この路線、高架線部分は、1階が店舗または住宅、2階が鉄道、3階に東急ターンパイクの有料道路にする。という計画でした。できていたら、さぞかし面白いものになっていたと思います。

さらに、既存の路面電車の玉川線はそのまま残る予定でした。

なぜこの南側ルートにしようとしたかというと、まだ宅地開発がされておらず、買収しなければならない住宅が438戸と少なかったからです。

ちなみにこの時、溝の口から長津田までの延長線も免許申請します。この際、軌間は1435mm集電方式は第三軌条方式ということで、銀座線と同じ規格の電車が長津田まで走る想定でした。

ということで、この案が実現していたら、浅草駅とか上野駅で「長津田行き」が見られたことになります。

しかしこの案、多摩田園都市の客を銀座線規格の地下鉄では乗せきれないだろうということになり、1957年(昭和32年)に中央林間まで申請区間を伸ばす際に、軌間を1067mm、集電方式をパンタグラフ方式に改めます。

この時点では3つの路線が成立する計画になっていました。
①二子玉川ー渋谷ー浅草(銀座線直通)
②二子玉川ー渋谷(地上。既存の東急玉川線)
③中央林間ー長津田ー二子玉川ー大井町(大井町線を延長)

これが全部できていたら、結構胸熱ですよね。

今度は北側ルートへ

1956年(昭和31年)に出された計画は現在線よりも南側を走るルートで、1959年(昭和34年)に免許を得ますが、この際、渋谷から三軒茶屋までの間は国道246号線の下に建設するように求められます。
そこで、東急はまた新たなルート案を作ります。

ルートをざっくり紹介していくと、まず、銀座線と乗り入れるため、渋谷駅は銀座線の駅。そこから銀座線の車庫線をそのまま使い、道玄坂では地下に潜ります。
井の頭線みたいに、渋谷駅を出るとトンネルになる。ということです。

この後、山手通りのところで地上の高架線になり、氷川神社付近で堀割になり、大橋駅になります。

大橋駅からは目黒川を高架で渡り、その後国道246号線の地下に至り、三軒茶屋に行き、そこから世田谷通りに入ります。

その後、蛇崩川に来ると地上の高架線になり、川の上の2km走ります。そして弦巻駅を出てからまた地下線になり、再び地上に出て用賀駅になり、地下・高架を繰り返して二子玉川に向かうというルートです。

この地下と高架を組み合わせた案に、地元の世田谷区では反対の声や疑問の声が出始めます。
しかし、東急では1964年(昭和39年)の東京オリンピックまでの完成を目指して、この案で押し切ろうとします。

一方で、東京オリンピックを目指して、国道246号線拡幅の道路整備が急速に進み出します。あまりに急であったので、今度は鉄道整備との同時施工が難しくなってしまいました。そうこうしているうちに、建設予定地内に住宅が建ち並び始め、結局1962年(昭和37年)8月東急は渋谷ー三軒茶屋間は全て、国道246号線の地下を通すことにします。

このような中、地下部分が多くなると、建設費用をどう回収するかが問題になります。そして、そもそも銀座線規格の車両で輸送力が足りるのかという問題も出てきます。このような中、二子玉川から先から電車を乗り入れるべきではないかという議論が出てきます。

結局、昭和30年代、渋谷ー二子玉川間の扱いはあっちに行ったりこっちに行ったりしますが、東急はこの間、溝の口から先の田園都市線の建設を急いでいました。

二子玉川から先の路線は?

田園都市線は、当初銀座線と同じ規格で溝の口ー長津田間の免許申請をしますが、1957年(昭和32年)に中央林間まで申請区間を伸ばす際に、軌間を1067mm、集電方式をパンタグラフ方式に改めます。

そして、都心乗り入れのため、1962年(昭和37年)10月、大井町線は池上線を経由して泉岳寺まで建設して、都営6号線(今の都営三田線)に乗り入れをしようとする計画を立てます。つまり中央林間から二子玉川、旗の台を経由して三田、大手町への直通を目指したのです。

ところが、1965年(昭和40年)1月に東急は突如として6号線(三田線)への乗り入れ計画を中止する意向を示します。理由は三田線は高島平から巣鴨の建設が開始されたが南側に来るまでに時間がかかること、距離的にも五反田・泉岳寺経由は遠回りであり、乗客の利便増進に資するものではないという東急の経営判断によるものでした

東急としては、6号線(三田線)への乗り入れを諦め、銀座線への乗り入れも諦めて、田園都市線の電車を渋谷に乗り入れ、その先は地下鉄建設を働きかけて、玉川線問題、並びに多摩田園都市への鉄道輸送問題を解決しようとしました。

右往左往する東急と、部分地下化案

1968年(昭和43年)都市計画審議会は二子玉川から三軒茶屋、渋谷、神宮前(今の表参道)、永田町、九段下、神保町、大手町を経て蛎殻町(今の水天宮前)までの半蔵門線ルートを11号線として決定します。

ちなみに、溝の口から長津田までの田園都市線は1966年(昭和41年)に開業します。

同じ年の1966年(昭和41年)、今度は国道246号線の上、渋谷から用賀まで、首都高速渋谷線の建設が決定します。この際、道路中央部に首都高の橋脚を建てるため、道路中央部を走る玉川線の廃止を求められます。

東急は、代替としてバスを走らせると、道路渋滞がますますひどくなるとして、玉川線の大橋ー駒沢間地下化を提案します。しかしこの案は、費用負担を求められた首都高速側の反対により、実現しませんでした。

そして、1967年(昭和42年)玉川線は道路中央から道路脇に移設して、首都高の高架橋を建てることで一旦決まります。ちなみにこの時にも、地下に新しい線を敷くものの、地上を走る玉川線はそのまま残す計画でした。

結局、1968年(昭和43年)、建設省、首都高速公団、東京都、世田谷区、東急電鉄の5者会談が行われ、地上の玉川線の廃止。渋谷から二子玉川の手前までの完全地下化が決定され、今の形になることになりました。これが今の形です。1946年(昭和21年)の新設軌道案が出てから22年経っていました。

そして1977年(昭和52年)渋谷ー二子玉川園間の地下新線が「新玉川線」として開業、1978年(昭和53年)半蔵門線の開業が開業して今の形になります。その後、2000年(平成12年)に新玉川線区間も「田園都市線」と呼ばれるようになり、二子玉川園駅が二子玉川に改称されて今に至ります。

以上が、田園都市線の渋谷から二子玉川まで地下を走る理由です。

個人的な興味を言えば、地上を走る玉川線をそのまま残して欲しかった気もしますが、今の形が輸送力という点では良かったのだと思います。強いて言えば、渋谷駅をもう少し余裕のある作りにしてくれていれば、混雑はもう少しマシになったのではないかと思います。

【参考】
東京急行電鉄「新玉川線建設史」
東京急行電鉄五十年史