
大糸線は長野県の松本駅と新潟県の糸魚川駅を結ぶ105.4kmの路線です。松本駅から途中の南小谷駅まではJR東日本の管轄で直流電化されていますが、南小谷以北、糸魚川まではJR西日本の管轄で非電化区間です。なぜ、電化区間は南小谷までなのでしょうか?鉄道好きの人はなぜか気になるはずです。ちなみに、この疑問にきちんと答えた書物は、僕が見た限りではありません(もちろんWikipediaにも)。
ということで、このブログで謎を明らかにしたいと思います。じっちゃんの名にかけて!笑
松本駅で現状を観察する
やって来たのは特急あずさ5号南小谷行きです。定期列車の特急としては一本だけ大糸線を走る特急です。

ここ松本で後ろの3両を切り離して、9両で南小谷まで向かいます。

この日は「山の日」の3連休。普段走らない名古屋からの特急しなのがやってきました。南小谷ではなく、白馬行きです。正月とGW、お盆の時期に走ります。


383系は置き換えが決まっています。今のところは385系は8両編成で4両編成は作られない感じ。果たして白馬乗り入れは継続されるのでしょうか?
大糸線建設の歴史
大糸線は私鉄によって建設が開始されます。
1915年に松本から信濃大町まで、私鉄の信濃鉄道(今のしなの鉄道とは全くの別物)によって開業します。さらに1926年、電化されます。昭和2年というかなり早い時期です。

信濃大町駅から先は国鉄によって建設されます。1929年、信濃大町から簗場まで「大糸南線」として開業します。ちなみに、当初から信濃大町から糸魚川まで結ぶことを想定していたので起点と終点の駅名を取って「大糸線」とされ、南北それぞれから建設したので、この区間は「大糸南線」と命名されました。「松糸線」にならなかったのはこのような理由です。ちなみに、この区間は松本から信濃大町間とは異なり、非電化でした。
その後、急ピッチで路線が延長されます。1930年に簗場から神城、1932年に神城から信濃森上まで開業します。

一方で北側の建設も始まります。1934年、糸魚川ー根知間が大糸北線として開業します。大糸北線は現在のJR西日本の区間。もちろん非電化です。
翌年の1935年には、大糸南線の信濃森上〜中土間と、大糸北線の根知〜小滝間が開業します。
さらに、1937年には、信濃鉄道が国に買収されて、大糸南線に組み込まれます。
戦争前の動きはここで止まります。
戦後の大糸線と信濃森上までの電化
戦争をはさんで20年、1957年、中土〜小滝間が開業して、大糸線が全通します。この時、電化区間は松本〜信濃大町間だけ。ちなみに、新宿からの電化区間は甲府までで、甲府から松本までは非電化でした。
そしてついに、1959年、信濃大町〜信濃四ツ谷(今の白馬)までが電化されます。さらに翌年、1960年に信濃四ツ谷〜信濃森上間が電化されます。この時はまだ、中央線の電化区間が甲府までだった時代です。なぜ、このような早い時期に電化をしたのでしょうか?

この時代、夏山登山と冬のスキーがブームになり、白馬エリアには観光客が急増します。まだ高速道路が全くない時代、首都圏から来る場合は列車で来ることがメジャーでした。なんと8割の人が鉄道利用だったという統計も残っています。
一方で、電化区間が松本から信濃大町までしかなかったため、東京方面から来る乗客は、新宿から松本まで急行列車に乗り、松本駅から信濃大町駅までは電車に乗り、信濃大町駅でまた乗り換えていました。中央線からの直通列車はなく、大糸線は4両編成でした。ということで、今の白馬駅まで2回乗り換える必要があり、かなりの手間になっていました。また、貧弱な車両と駅施設のため、乗り換え客でごった返して大変だったようです。

何せ、中央線でさえ電化がままならかった時代、大糸線に対して輸送力増強を行う余裕は、国鉄にはありませんでした。当時の国鉄は、方々で電化や複線化をしていたので、資金が追いつきません。このような際、地元が輸送力増強を求める場合、国鉄は「利用債」という債券を発行して、それを地元が引き受けることによって、電化や複線化を行っていました。
このような中、信濃大町ー信濃四ツ谷(今の白馬)までの電化工事費用、7000万円のうち、地元の長野県が5000万円分の利用債を引き受けることによって、電化を実現させました。
利用債はあくまでお金を借りているだけですが、5年間据え置きで、その後5年かけて金利をつけて国鉄が自治体に返すことになります。それでも、資金不足の国鉄にとっては有り難かったようです。
信濃四ツ谷(今の白馬)まで電化を行ったものの、信濃大町までの間で使っていた電車を増備することはできず、信濃大町行きを信濃四谷行きとしてそのまま伸ばしただけで、輸送力の増強はされませんでした。ただ、乗り換えが減っただけです。このため、ホームの延長と変電所の増強を行わない限り、輸送力を増やすことが難しくなってきました。
いよいよ南小谷までの電化が!
白馬エリアのスキーの中心は八方尾根スキー場です。東急が中心となって開発をします。場所は、白馬駅の近くでバスで至便なところです。

一方で、白馬エリアの観光ブームは続き、開発エリアが北部に広がります。そして、栂池高原を中心として白馬から南小谷までの間でスキー場開発が始まります。
信濃森上まで電化された1960年。栂池高原スキー場、白馬乗鞍温泉スキー場、白馬コルチナスキー場に一斉ににリフトがかかります。いずれのスキー場も信濃森上から南小谷までの間にあります。
一方で、南小谷より先にスキー場のリフト設置はありません。南小谷はこの辺りのスキー場開発の北限でした。
信濃森上まで電化された後、乗客は信濃森上でディーゼルカーに乗り換えて南小谷方面に向かっていましたが、このような中で、南小谷まで列車を直通させる機運が高まります。加えて、松本から信濃森上までの区間のホーム延長、変電所増設。そして信濃森上から南小谷までの電化が同時に企画されます。
結局、優等列車が停まる駅のホーム延長に3億1700万円、変電所の増設に2億1000万円、そして信濃森上から南小谷までの電化に2億1000万円かかり、総額7億3700万円の投資になりました。

この全額を国鉄は利用債を発行して、全額地元が引き受けました。
そしてついに、1967年、信濃森上から南小谷までの電化が完成します。
つまり、南小谷まで電化がされているのは、①スキー場開発の北限が南小谷までであったこと。②長野県下の地元が全額「利用債」を引き受けることによって、国鉄が電化や輸送力増強の投資ができた、ということが理由です。
新潟県がお金を出せば、糸魚川まで電化されたかもしれませんが、南小谷まで電化された時、北陸本線の電化区間はまだ糸魚川までで、糸魚川から先、長岡の一つ手前の宮内までは非電化だった時代なので、大糸線にお金は出さなかっただろうと思います。
大糸線の栄光と転落
南小谷まで電化される2年前、1965年に新宿からの電化区間が松本まで繋がります。そして、その翌年の1966年には、新宿から松本まで、特急あずさの運転が開始されます。

1971年、大糸線には臨時列車ながら、信濃大町まで特急あずさが乗り入れます。そしてついに、1982年に定期化されて、特急あずさは南小谷まで乗り入れます。さらにその翌年の1983年には名古屋から特急しなのが乗り入れます。
ここから10数年が大糸線の黄金時代だったように思います。中央線に沿って中央道が敷かれて、特急あずさは高速道路との競争が始まりますが、大糸線の沿線には今でも高速道路が敷かれていません。
1986年にはスキー専用団体列車の「シュプール号」が首都圏から走り始めます。1987年には伝説のスキー映画「私をスキーに連れてって」が上映され、一大スキーブームが到来します。
1980年代後半から、1990年代半ばまで、大糸線には昼夜問わず、東京や名古屋方面から優等列車が走ります。
1991年、長野オリンピックの開催が決定します。大糸線沿線では、白馬でジャンプ競技が行われることになりました。

同じ年、長野新幹線(今の北陸新幹線)がミニ新幹線ではなく、フルスペックの新幹線として建設されることが決まります。そのため、長野市から白馬方面に向かって「オリンピック道路」が整備されます。既存の県道の改修です(国道ではない)。
1998年、長野新幹線が開業します。この時が大糸線の優等列車が最も多く残っていた時だと思いますが、定期列車のスーパーあずさが2往復南小谷行き。松本から快速になるあずさが1往復。それ以外に土日運転のあずさと、名古屋からのしなのが1往復ずつ。夜行は急行アルプスが1往復、それ以外に臨時の夜行アルプスが2往復です。これ以外にスキーシーズンはシュプール号が首都圏から2往復、中京圏から1往復ありました。
一方で現在の時刻表を見ると、定期列車のあずさが1往復。土日に走る快速リゾートビューふるさとが1往復。正月やお盆に走る特急しなのが1往復。それ以外に多客期に1〜2往復のあずさが走る形になっています。
信濃大町以北は、長野駅から県道(オリンピック道路)を走るバスの方が断然早く、新宿から特急あずさに乗り通すよりも1時間近く早く到着します。特に、北陸新幹線金沢開業でかがやきが走り始めると、新幹線長野駅経由との差は開くばかりです。

この県道経由の特急バス。高速バスではありませんが、新幹線と県道経由バスが大糸線を苦境に立たせます。
今後の見通し
南小谷から糸魚川までのJR西日本区間が、乗客が少ない。ということでかねてから問題になっていました。ところが、JR東日本がローカル線の輸送人員を発表したら、南小谷から糸魚川よりも、白馬から南小谷までの方が少ないという、笑えない事態になっています。
大糸線が長距離輸送の一端を担う役割から遠ざかる中、信濃大町以北、特に白馬以北は、ローカル輸送だけで成り立たせるのは厳しく「乗ること自体が観光」という、新たな価値を提供しない限りは難しいと思います。また、この界隈を周遊するインバウンドの需要をうまく取り込んで、アルペンルートや白馬から富山金沢方面への移動客をうまくつかまえるとか、新たな観光ルート開発が必要になるのではないかと思います。
【参考】
信濃毎日新聞社「信毎年鑑1960年版」
交通協力会「国鉄線・第216号」
日本交通公社/JTBの時刻表各号
鉄道ジャーナル 1993年4月号